【マルタはイギリスだった?】マルタの英国統治から独立後の歴史

【マルタはイギリスだった?】マルタの英国統治から独立後の歴史

英国支配の始まりと背景

マルタは長年ホスピタル騎士団の領地でしたが、1798年にナポレオン軍が占領しました。その後マルタ人の反乱とイギリス・ポルトガルなどの支援により、1800年にフランス軍は降伏し、マルタはイギリスの保護領となりました。本来は1802年のアミアンの和約でイギリスが撤退する予定でしたが、実行されず両国は再び戦争状態に。1813年7月にはマルタ初代総督が任命されてイギリスの直轄植民地となり、1814年のパリ会議(会議)でその地位が正式に承認されました。こうしてマルタは19世紀初頭からイギリス帝国の重要な一部となり、マルタ人は英語教育や行政制度などイギリス文化の影響を受けるようになりました。

 

地政学的重要性と英海軍基地

マルタは地中海中央に位置し、古くから戦略的に要衝とみなされてきました。イギリス支配下では特に1869年のスエズ運河開通以降、その価値が飛躍的に高まりました。運河を経由して東洋と欧州を結ぶ海上交通の途上にあり、マルタの優れた天然港は大英帝国にとって貴重な補給拠点となりました。その結果、マルタ島にはイギリス海軍が多数駐留し、島全体が軍事要塞化されて地中海艦隊の本拠地となりました。19世紀末から要塞が強化され、バレッタ湾(グランドハーバー)周辺には軍港や砲台が建設されて、英海軍の地位を確固たるものとしました。この軍事的要衝としての役割により、マルタは帝国防衛と商業航路の守り手となったのです。

 

第二次世界大戦中のマルタ

第2次世界大戦中、イタリア・ドイツの枢軸国軍は地中海進出を図り、マルタは激しい空襲と包囲攻撃を受けました。1942年には連合軍でも最も包囲状態が厳しかった場所となり、食料や補給が極度に不足する中、マルタ住民は勇敢に持ちこたえました。その功績と犠牲を称え、1942年4月15日には当時の英国王ジョージ6世がジョージ十字勲章(George Cross)をマルタ島とその全住民に対して授与しました。この勲章は現在のマルタ国旗にもそのまま取り入れられており、マルタ人の誇りと勇気を象徴しています

 

戦後の自治と1964年独立

戦後、マルタ島内では自治や独立を求める声が次第に高まりました。1950年代には英本国政府と協議しながら徐々に自治制度が拡大され、1961年には自治領憲法が制定されて首相を首班とする内閣が発足しました。最終的に1964年9月21日、マルタは英連邦王国マルタ(State of Malta)としてイギリスから独立し、同年9月にマルタ国旗と国章が定められました。独立時点ではエリザベス2世が形式上の国王でしたが、首相が実質的な統治権を持つ立憲君主制の国家となりました

 

共和国化と英軍撤退

独立後の1970年代、マルタ国内では主権国家への移行が進められます。1974年12月13日に 共和制 に移行し、最後の総督であったアンソニー・マモを初代大統領とするマルタ共和国が成立しました。同時に国内の貴族称号も廃止され、旧帝国時代の痕跡を整理しました。さらに1979年3月31日には、英領時代の軍事基地に関する最後の経済協定が満了し、翌4月1日に最後の英軍部隊が島を撤退しました。この日(3月31日)は「自由の日(Jum il-Ħelsien)」と定められ、独立100年近くの節目にマルタ人が完全な主権を取り戻した日として祝われています

 

現在の政治体制と観光国としての発展

現在のマルタは一院制の議会制民主共和国であり、元首の大統領は儀礼的地位にとどまり、実質的な行政権は首相率いる内閣が担っています。イギリスとの関係は英連邦内の友好的協力関係に移り、2004年には欧州連合(EU)に加盟し、欧州議会選挙にも参加しています。経済面ではかつて要塞だった面影は薄れ、観光業が主要産業として発展しています。現在、観光業はマルタ経済の約3割を占める重要分野となっており、美しい地中海の景観や歴史的建造物、温暖な気候を目当てに毎年多くの旅行者が訪れています。実際、2019年には約277万人の観光客がマルタを訪れ、宿泊日数は1,900万泊近くに達するなど、観光は地域経済に大きく寄与しています。以上のように、マルタは英国統治時代の軍事拠点から独立国家へと変遷し、現在は民主主義国家として観光立国への道を歩んでいます。

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